彼は直帰しました

どうしても編集者になりたかったので印刷会社から広告営業経由ですべりこんだ私のブログ

「文春無双」はピックメディアへの蜂起だ

16年に入って週刊文春のヒット記事、いわゆる文春無双が止まらない。個人的にすごかったと感じたスクープを以下にざっとあげてみる。

1月14日号 ベッキー31歳禁断愛 お相手は紅白初出場歌手27歳!
1月28日号「甘利明大臣事務所に 賄賂1200万円を渡した」実名告発
2月18日号 育休国会議員宮崎謙介(35) の“ゲス不倫”撮った
2月25日号 元少年Aを直撃!「命がけで来てんだろ? お前、顔覚えたぞ!」

そして最新号がこれ。

shukan.bunshun.jp

 

政治からゴシップまでまさに縦横無尽、獅子奮迅。

 

なぜ文春ばかり、という声が聞こえそうだが、業界内でよく言われている通り、今現在の編集長の企画力やネットワークがすごい(持ち込んだときのギャラもいい?)、ということが要因の一つなのはきっと確かなんだろう。強い媒体には、やはりその庇護を必要とするような、でも魅力ある記事がタレ込まれる。

ironna.jp

 

そのへんはいろいろなメディアでも拾われているのでそちらをご確認いただくとして、一方で、文春の存在意義が高まっている反面、こういった週刊誌ビジネスをそもそも維持できなくなってきた他社の疲弊がその背景にあるように思われてならない。

 

かつてゴシップ的なネタを扱う意味で大きな役割を担っていたのは写真週刊誌だった。最盛期には5誌が刊行されていたそうだけど、いまや講談社の「FRIDAY」と光文社の「FLASH」の2誌になってしまった。しかもその存続している2誌の部数もこのとおり。

 

FRIDAY  2008年38万部 → 2015年26万部 

sougouranking.net

 

FLASH 2008年 39万部 →  2015年 20.5万部

sougouranking.net

 

2008年も出版不況は始まっていたのだからこの部数減はやはりきついというほかない。しかも両方「音羽系」の出版社、ということでかつてFOCUSやらが存在していた頃のようなスクープ合戦、という様相もなさそうだし。

 

この落ち込みはなぜ、といえばそれはもちろんインターネットメディアの活況があるだろう。これについてはあれこれ考えればいくらでも理由はでてくるが、ひとたび戦いを挑もうとしたなら(挑まないけど)、週刊誌のような速報性メディアがネットに勝てないのは明白だ。

 

ただ、近くで見ていてこういったスクープメディアに強烈なパンチを食らわせたのは意外と「ブログ」の登場にもあったようにおもう。

 

たとえば、かつては芸能人が何かスキャンダルを起こせば、また別のメディアに登場して言い訳、というか火消しを行うのは定石だった。そしてそれは持ちつ持たれつというか、いろいろな雑誌メディアを潤す流れのひとつだったのは確かだろう。しかし火消しを行おうとしても、結局誰かの口伝えだし、意図する内容で伝播してくれるとは限らない。

 

そこに登場したブログのおかげで、自分(もしくは事務所)の意図にきちんと即した言い訳ができるようになったのは確かだし、場合によっては、世の中に「変な出方」をする前に自ら都合よく発信して、なるべく延焼をおさえる、という手段にもなりえた。そんな手段の登場も含めた、複合的な理由がこういったメディアにとってはマイナス要因につながっている気がする。

 

そんな不利な状況のなかでの文春の奮迅。これにはやはり拍手を送りたい。

 

今現在刊行されている週刊誌での最大部数(たしか45万部くらい?)とはいえ、やはりそれは下降気味であり、最大部数だったころにくらべれば厳しいのは事実だろう。当然、スクープを連発する組織は社員だけで担われているわけでなく、さまざまなコストが要求される。これだけ連発する組織を維持するには、それは膨大な費用が必要になることは想像するにたやすい。

 

本というのはある程度の部数までいけば、あとはお金を刷っているようなもの、ということを聞いたことがある。逆に言えばある程度からどこまで売り伸ばせるか、ということこそ、広告収益も期待できない昨今の雑誌にとって、そして出版社にとって重要なのも間違いない。

 

そこで何を言いたいかというと、ネットを中心として大流行したピックメディアは、やはりあくどいし、ずるい。コストをかけずに、リスクも負わずに、話題になった瞬間の記事を拾い拡散する。いわゆるフリーライドだ。

 

情報加工の機能を背負ったネットの機能上、これはある意味で仕方ない部分も有るといえば有る。この記事だって、もしベッキーの件を知らない人がいて読んでしまえば、知ったことになってしまい、文春にまで目が届かずに終わる心配だってある。それだってフリーライドだ。

 ただ、フリーライドを意図的にビジネスにする、というのは、やはりこれから先の時代にどうなのか、どうあるべきか考える時期にまで来たようにおもう、というかおもいたい。

 

いわゆる出版のようにこれまで1次ソースの役割を果たしていた紙メディアは、そういったネットサービスの力を借りないと、なかなかネットの中へと飛び出すことができなかったのは事実。しかしテクノロジーが発展したいま、1次ソースが飛び出すのもようやくできるようになってきた。

 

ふりかえればここ数年、あれこれちらばる情報を集めて、欲しい人に届ける役割、いわゆるキュレーションの時代と言われていた。佐々木俊尚さんがそのものズバリの「キュレーションの時代」(ちくま新書)を出したのが2011年だから、それもそんな昔でもない。ただ、確かにキュレーションの時代にはなったけど、誰か第三者がキュレーターとして台頭する、というのではなく、発信者がキュレーターになる、という意味で、この本の述べていた未来と若干異なってきたような気がする。

ヤフーのように気づいたメディアは自らが1次ソースになるべく別会社を作ったり、メディア出身者をあつめて動き出しているけど、これからそういった傾向はますます強まるし、存在意義が高まってきているのは事実なのではないだろうか。

 

それが今回の文春の奮迅の背景にあると思う。だれにもピックされないまま、いきなり書店の店頭に、いきなり電車の中吊りに、いきなりテレビのニュースに、飛び出す。それをピックするメディアはもはや後追いでしかない。

 

そんな時代が見えてきたら、出版にも少しは光があるのではないだろうか、と眠い目をこすりながら私はおもった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

社内で言葉が通じない

きょうは仕事で世界的インターネットサービスの会社に行きました。

そこで同行してもらった世代の近い別会社の人と話したのだけど、コンテンツを作るだけ、ビュー数があれば、売れれば。どれか一つが満たされれば許される、そんな時代はとっくに終わっていることをひしひし実感して。

手を変え品を変え、あれとこれをかけあわせて、最後は文庫にしたりコミックにしたりして。とにかくマネタイズできる可能性をとことん追求して、絞りつくすのがいまなんだよなあ、などと考えていました。

 

でもまてよ。じゃあそれを社内の平均50代後半の上層部に説明してどこまでうまく理解してもらえるのだろう? 

バイラルメディアとお付き合いして拡散してもらってもいいと思うんですよ」

「広告に頼らず実はこうやって課金しても採算取れるんじゃないですか」

「うちのコンテンツは一次メディアだから価値ありますよ」

もう直ぐ40代の自分でも本当の意味で理解できているのかわからないあれこれが、もはやビジネスであたりまえになっている昨今、果たして自分たちはきちんと会話ができているのだろうか? 言葉が通じずとも、乗り合わせた船は前に進めているんだろうか? ふと疑問を感じた一日でしたとさ。

 

 

 

本のタイトルについての考察 2

 本のタイトルって著者がすご〜くこだわって決めるイメージがあるとおもう。

 確かにそのような著者もいることはいる。でも小説などはともかく、新書や専門書、しかも二冊も三冊もすでに刊行している著者ともなれば、多くは編集者にお任せなのが現実だ。あまりに想いを込めて書き上げた著者より、書店市場と向き合う、ある意味でサラリーマンである編集者に決めてもらった方が「売れる」可能性が高い、ということもあるだろう。実際、新書や専門書系の単行本担当である自分の場合、いままでに手がけた本の8割がたは自分、つまり編集者が決めてきた。

 ここで考えて欲しい。書店の目立つところ(レジ近くや面陳)に居並ぶいまどきの本というのは、欲しているジャンルや内容さえずれていなければ、基本的にどれを手に取っても、読んでそれなりに楽しめるものが多くなったと思わないだろうか。

 その一因はマーケティング(とはとても言えないレベルだが)能力が出版業にかなり要求されるようになり、いまどういった著者にお願いするべきなのか、どのような本を出せば売れるのか、ということが、あるレベルで均質化してきているからだとおもう。さらに悪く言えば、さほど本に読みなれていないような人であっても、ひっかかりなく読み進められる本を作ることこそが、編集者や著者にとって、命題のひとつにされているからだ。

 以前、とある書評番組のディレクターとお会いした際に、どう本を選定しているか、の基準として「偏差値50以下の学校を出たような、女性が惹きつけられる内容であるか」*注:私が言ったのではありませんからね と言っていた。

 何を持って偏差値なのかはわからないけど言わんとすることはわからなくはないよね。そして実際、そういった本でなければ、マーケットからは見向きもされない。定価によってもちろん変わるだろうけど、本来、刊行部数が1万部いかないような本は、利益どうのこうのと、全國の書店のすべてに置かれるか、という点で一般的な製造業の商品から見たら、まったくその基準には達していないはずだ。

 そのような本を数年かけて刊行する編集者は絶滅危惧種なれどまだ、どこの会社にもいる。出しても人件費にすら達しない上に、多くは返本でマイナスを出すことになるので、普通の会社なら肩をたたかれるどころか、たたき壊されても不思議ではないだろう。私から見れば憎らしい、というより羨ましくもあるが、彼らが絶滅する瞬間こそ、出版が真の意味で変革するときになるのかもしれない。

 と酔っ払った頭でなんとかここまで書いてきて、今回はタイトル付けの要諦を考える、という趣で書き始めたのに気付いたのだけど……その話題はまた次回。

 

本のタイトルについての考察 1

 本を出版する際、最後にして最高に悩ましい過程が待つ。それがタイトル付けだ。

 自分が担当している新書だと、タイトルは「なぜ〜なのか?」「AのB」「○○力」「数字」など、おおよそパターン化しているとはいえる。

 パターン化しているからこそ、差別化して印象に残る、斬新なタイトルを作るのももちろん戦略としてありだし、むしろ過去の名編集者達が作り上げたフォーマットにのっとったタイトルを作るのも効率的かもしれない。

 たしか「もしドラ」の担当編集者だった加藤さんはタイトルを100個は最低考える、とおっしゃっていた。だから編集者歴が少ないのに最前線に立っている自分は、200個(ものにもよるけど)は考えている。

 著者が有名でなかったり、内容が実験的なものだったりすればなおさら、タイトルで売れるかどうかは半分以上決まってしまうと言っても過言ではないと思う。

 しかしタイトルはくせ者で、沢山作ればそれでいいものがでるとも限らないし、執筆をずっと付き添ってきたからこそ、へんてこな主観が生まれて、読者が喜ぶものとはかけ離れた場所にたどり着いてしまう事がしばしばある。

 その証拠かどうかは分からないけれど、他の編集者が校了まで手がけた本のタイトル付けだけを数冊手伝ったが、いずれも重版した。中身は読んでいなかったのに。

 というのも正直、今刊行されている本は、やはり数百年にわたってつくりあげられたコンテンツだけに、どれを手にとってもそこそこ面白い。それなりに気づきもある(あるあるも、ある)。要は手にとってもらって少しでも読み進めてもらえるかどうか、なのだ。